社長ブログ

野球少年だった私が、住宅を手掛ける理由

高度経済成長末期に生まれる

東京オリンピックの4年後の1968年に秋田県の県北、野球の盛んな片田舎に生まれる。

家は兼業農家で、父は鉱山に勤め母は農業をしていた。

よく農作業を手伝わせられたのを憶えているが、虫が嫌いだったため、農作業はあまり好きではなかった。

おこずかいは友達より少なかったが、家にお金が無かったのではなくしつけとの一環だったと大きくなってから分かった。

学生時代は野球少年だった。

野球ってすごいなと思ったのは、6歳の時長嶋茂雄の引退試合を見た時。当然試合の内容など憶えていないが引退セレモニーが物凄く印象に残っている。それがきっかけで小学校3年から野球を始めた。

全校生徒が100人そこそこの小学校なので市内では児童数が少ない学校で、市の大会での優勝経験がなかった。

6年生時に男子同級生総勢10人で挑み初優勝を果たし、この頃から野球中心の生活が始まったのである。

プロ野球選手を夢見て中学でも野球を頑張ったが、野球の強い学校からオファーはなく、プロ野球選手を諦め地元の高校へ入学。

しかし野球が好きだったので高校でも野球中心の生活となった。

野球が終わった後、何になりたいか

勉強といって机に向かうのがいやだった自分。大学で4年も勉強と思うと、とても進学する気になれなかったので就職する事に。

やりたいことが分からず、自宅から通える会社ならどこでもいいぐらいの感じで求人票を眺めていたら、地元観光ホテルの求人が目に留まった。

そこそこ給料も良かったので、そこに応募することに。

ところがある日、夜7時ぐらいに担任の先生から電話があり「学校推薦で銀行の試験を受けてほしい」と依頼された。

理由は「不合格でも学校の成績表が良い運動部員を推薦しないと、来年から求人が来なくなるから」だそうだ。

当時は就職難でもあったため、予行練習のつもりで受験した。しかし何故か一次試験合格し、さらには二次試験がホテルの試験日と重なってしまったのである。

担任の先生は「頼むから2次試験に行ってくれ!」と懇願したのでる。悩んだ結果、ホテルの試験は受けずに銀行の二次試験を受けることにした。

銀行の二次試験の面接当日、私は大きな声で野球の話をしたのである。

銀行員になりたかった訳ではなかった私は、帰りの電車で次どこの試験が受けられるかばかり考えていた。

しかしそんな気持ちとは裏腹に、銀行の二次試験も合格してしまったのである。合格した理由がまったくわからない。本当に謎である。

「銀行は倒産しない」「給料が良い」「後輩たちの求人も考えろ」などと周りの大人たちに言いくるめられてしまい、結局そのまま銀行に就職した。

銀行員時代バブル崩壊を経験(1987年~2007)

高校卒業後入社した銀行の配属先は盛岡だった。配属銀行の軟式野球部に入る事になり、休みなしの生活が始まった。仕事は普通にこなし、休みの日は野球と、実家に一度も帰れずに5月1日を迎えた。

当時、日掛け集金という新人が任される仕事をしていて、午前中の集金が終わって銀行に戻って来た時に父が亡くなった事を知らされた。

私は父との思い出はそんなに多くはない。寡黙な優しい人で怒られた記憶もほとんどなかった。

父と最後に話したのは「ゴールデンウイークの後半は野球が休みになるから、家に帰るね」と1週間前に電話で話したのが最後だった。公衆電話で長く話せない時代。未だに残念で仕方ない。

実家を継いだ兄は私に大学進学を進めていたが、葬儀の後「お前が大学進学していたら、就職してもらって俺は助けられた」と告げられ、22歳で家長となった兄の思いを感じた。

社会を教えてくれる父は銀行の先輩やお客さんになった

世の中はバブルに突入。仕事を憶えなくても給与が上がり、今から見れば夢のような時代がやって来たのである。

しかし、バブル崩壊により銀行を取り巻く環境はジワジワと冷え込んでいった。

入社6年目。野球を辞めるとともに花巻に転勤になり、仕事を憶えていないダメ男にとってはこの花巻が試練となった。

得意先担当、新規融資先開拓、上司には同期入社の社員と比べられる日々。お客様からは「こんな何も分からない奴をうちの担当にするな!」と電話が来ることもあった。

自分の能力不足を感じ、銀行を辞めようかとも真剣に考えていた時期でもあった。

しかし、そこで力を貸してくれたのが父親代わりの上司や同僚、お客さんだった。この時、人の力を借りる勇気と分からないことを分からないままにしない、チャレンジする事を学んだ。

一人前の仕事が出来るようになったと感じたのもこの花巻時代。

ある時、私の元へ転勤の知らせが届いた。転勤の辞令が届いているはずなのに支店長からの発表が無い。

「今、お前を抜かれるのは支店として厳しい。人事部と交渉したが認められなかった。」と上司に告げられ、他の支店より1日遅れで発表されたのである。

その後「うちに寄越すな!!」と怒りの電話してきた、とある会社の社長さんに転勤の挨拶にお伺いした時「よく頑張って勉強したな、次の店でも頑張れよ」と言われた時、とても嬉しかったのを今でも覚えている。

その後一関へ転勤し、4年間を過ごした。この時自分がいた銀行ではないが銀行の倒産を経験し、銀行を取り巻く環境がさらに悪化した。

さらに八戸へ転勤となり、住宅ローンと債権回収の勉強をすること2年半。バブル崩壊で苦しい状況の企業が町が大きいだけに沢山あった。

その後の辞令で花巻に戻り新規融資先として営業していた時、(株)ジョイ・コス 社長 佐藤益夫氏と担当得意先として(株)拓三建設 社長 藤田好造氏(現会長)の2人と出会った。

当時から(株)ジョイ・コスと(株)拓三建設の2社は取引があり、今思えばこの時から縁があったのかなと思っている。

左:(株)ジョイ・コス社長 佐藤氏、右:(株)拓三建設社長(現会長) 藤田氏

家系、家族の為に銀行を辞める

最初の花巻勤務時代に婿養子となった家が一族の総本家にあたる家であった。

八戸に居る時に花巻の父親が事故でこの世を去り、一族との付き合い方や花巻の母の事を考え、花巻に転勤させてもらい花巻に戻って来た。

けれど、銀行員である以上必ず転勤はある。仕事と家庭の両立をする方法をずっと考えていた。

そんなある日、仕事で(株)ジョイ・コスに行った時に雑談の中で悩みを(株)ジョイ・コスの社長、佐藤氏に告げた。

間髪入れずに「うちに来い、銀行の給料は保証してやる」と言われ、背中を押されたような気がした。その時に銀行を辞める決断をした。

決断した理由は4つある。

1.(株)ジョイ・コスの社長と初めて出会った時感じたものは、成功している経営者と同じ匂いだった。

2.特徴的な商品を持っていた。ただの物売り商売ではなく、科学的な根拠、実態の調査も踏まえたノウハウを売りにしていた。

3.銀行員として多くの経営者と仕事をする中で培って来た経験上、信用に足る経営者であると私は判断していた。

4.社屋、工場、工場設備の支援も銀行員として行った会社であり、銀行を辞める事に不安は無かった。

株式会社 ジョイ・コスに入社

ジョイ・コスパネルがこの世に生まれる1年前の平成11年当時、某大手ハウスメーカーで住宅を新築した。

なんと運が無い事かと思うくらい、住宅業界っていい加減なんだなと感じた。

高気密・高断熱のうたい文句はさすがに無かったけれど「断熱の仕様が北海道ですよ!」にのせられて建てた住宅が、ジョイ・コスのノウハウを知ったとたんすっかり色あせてしまった

しかしハウスメーカーの営業マンが悪いわけではない。私自身の知識が無かったため、営業マンも私をだました訳ではないと思う。業界には耐震と防火の基準しかないのだから。

変な話、断熱材を一切使わなくても住宅が建ってしまうのである。

これがジョイ・コスの営業として工務店さんを回った時なかなか受け入れてもらえない原因の一つだと感じた。

(株)ジョイ・コスに入社したころ日本は全国的なデフレにあり、九州からタマホームが岩手にも上陸した頃である。

坪298千円がチラシ、CMを賑わせていたから、坪単価が高くなる商材はいくら良くても敬遠され苦戦した。

「後継者が育たない。経営を手伝ってくれ」

(株)ジョイ・コスの花巻工場が軌道に乗った頃、(株)拓三建設の社長(現会長)より、「後継者が育たないから経営を手伝ってくれないか」との打診を受けた。

私自身ジョイ・コスの住宅を売ってみたい自分がいる反面、(株)ジョイ・コス 社長 佐藤益夫氏に拾ってもらった身、(株)拓三建設 社長 藤田好造氏(現会長)に「(株)ジョイ・コスの社長の了解が得られるなら考えます。両社長で話合って下さい」と2人に匙(さじ)を投げた。

(株)拓三建設 社長 藤田好造氏(現会長)から「了解をもらった」と言われ、(株)ジョイ・コス 社長 佐藤益夫氏に確認したところ「了承した後は、あなたがやりたいのであればいいよ」と言われ、(株)拓三建設へ入社することを決断した。

株式会社 拓三建設に入社後から現在。

(株)ジョイ・コスの営業時代、断り文句や使えない理由が、「値段が高くなり他社に負ける」「そこまでの性能にしなくても建築確認は下りる」価格が全ての様な話をいっぱいされた。そんな社長さんに限って立派な車に乗っていた。

自分の経験上その会社で住宅を建てるとなれば100%、もしくはそれに近い位その会社を信用しなければ、一生に一度の買い物なんてできないのが当たりまえで、予算がないから悪い物で良いといった感覚はお客さんにはないものだと思っていた。

性能が良く快適性・経済性が良い建物は値段が高くなると売れないのか?本当に難しいのか試してみたかった。

実際に販売する立場になり、苦戦したこともある

分かっているのは、ジョイ・コスパネルの値段と気密工事の方法だけ。実際は大変である。実際に住宅を建てるとなると、どんな材料が必要でいくら位の値段なのか分からない。

大工もどのくらいの日数がかかるかなど見積りをしてみると、坪単価はまちまち見積もってみなければ「契約金額なんて決められない」というところに行きついた。

ジョイ・コス住宅システムにこだわる理由

当社の新築住宅はジョイ・コス住宅システムを採用した住宅のみ建築します。

坪60万円位からになります。実際は見積しないと正確な金額は分かりません。

理由としては建物の大きさなどにより、使用する部材やパネル型断熱材の枚数、窓の数などが変わってくるためです。

(株)ジョイ・コスが製作するパネル型断熱材は販売開始から20年になります。ジョイ・コス住宅システムを採用した住宅はお客様の満足度が高く、クレームもありません。また私たちが責任をもって勧められる建物であり、(株)ジョイ・コスが認定する工務店でしか採用できないシステムだからなのです。

信頼している住宅システムだから、ジョイ・コス住宅システム1本で行きます。

太陽光発電のノウハウも同業者よりも勉強している自信があり、ゼロエネルギー住宅も難しいと思ったことがありません。

公共土木工事、建築工事、上下水道工事、外構工事など幅広い仕事を自社施工しています。様々な場面でお客様の要望にスピーディーに対応できることも強みだと思っています。

当社で住宅を建てた方の笑顔を想い、一人でも多く方の笑顔を見たいと思っています。

そのために、ほぼ毎日現場に足を運び、研究を重ね、お客様に納得・信頼して頂けるよう日々、生活をしております。

普段の様子はコチラをチェック!

私が思う、本当に暖かい家とは|暖かい家の価値と原点

続きを見る